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ライカ関連トピックス

ライカの歴史vol.01「バルナック型 第一編」ライカ誕生秘話〜ウル・ライカとヌル・ライカ〜

ライカを大きく二つに分類すると、旧型の「バルナック型」と、今も製造・販売されている「M型」に区別することができる。

そこで、今回より始まる新連載企画「ライカの歴史」は、バルナック型はどのように生まれたのか、つまりライカはどのように発明されたのか、そんな「ライカ誕生秘話」から始めようと思う。

ライカは誰の発想によるものなのか。
その名前の由来は何なのか。

さあ、いっしょにライカの歴史に旅立とう。

目次

  • ライカの源流
    1-1.オプティシェス・インスティトゥート
    1-2.カール・ケルナー
    1-3.二人の後継者
    1-4.エルンスト・ライツ
  • ライカ生みの親
    2-1.オスカー・バルナック
    2-2.小さなネガから
    2-3.ウル・ライカ
    2-4.ライカ判の論理的合理性
  • ライカ誕生
    3-1.2台のウル・ライカ
    3-2.ヌル・ライカ
    3-3.ライツ2世の英断「ライプチッヒ見本市」へ
    3-4.レンズ面での協力者「マックス・ベレク」
    3-5.「ライカ」という名前の由来
  • バルナック型とM型
    4-1.バルナック型とM型の違い
    4-2.M型はどのように誕生したのか
    4-3.バルナック型ライカの呼称
  • まとめ
  • 1.ライカの源流

    1-1.オプティシェス・インスティトゥート

    ライカは初めから「ライカ」を名乗っていた訳ではなく、そもそもカメラさえ作っていなかった。ライカの源流となる会社は「オプティシェス・インスティトゥート(Optisches Institut)」。ドイツの顕微鏡メーカーだった。

    オプティシェス・インスティトゥートは、1849年、カール・ケルナー(Carl Kellner, 1826年-1855年)により創設された。当初は僧院の部屋を借りて作業していたとの文献も残っているが、ウェッツラー(Wetzlar;ドイツ連邦共和国ヘッセン州)にモーリッツ・ヘンゾルト(Moritz Hensoldt)と共同で工場を構えている。もちろん、前述の通り当時はカメラなど製造していない。顕微鏡製造工場だった。

    1-2.カール・ケルナー

    オプティシェス・インスティトゥートの創設者「カール・ケルナー」は工学技術を専門とする発明家である。生まれはヘッセン大公国ヒルツェンハイン。パンクロマティック(全色性)の対物レンズのパイオニアだった。
    1849年、ケルナーはケルナー式接眼鏡を発明する。当時は顕微鏡用として発表されたが、やがて「長焦点の定番」となり、もっぱら低倍率での星雲星団用(望遠鏡用)として推奨されてきた。大きな特徴は、色収差が比較的小さく、視野も比較的広いこと。今でこそほとんど見かけなくなったが、一時は多数流通していた。実際、多くの彗星発見家も好んでケルナー式を使っていた。
    このケルナー式はとても優れたレンズだった。カール・フリードリヒ・ガウスもこのレンズを絶賛している(ガウスは19世紀最大の数学者の一人である。数学の各分野にとどまらず、電磁気など物理学にも、ガウスの名が付いた法則、手法等は数多く存在し、彼の名がそのまま単位になっているものもある)。そして、こうした天才からの評価もあり、このケルナー式は発表当初から多数注文を受けた。

    1-3.二人の後継者

    ケルナーのオプティシェス・インスティトゥートには、2人のパートナーが働いていた。
    1人は、ルイス・エンゲルバート (Louis Engelbert) 。ケルナーの信頼すべき従兄弟。
    もう1人は、フリードリッヒ・ベルテレ (Friederich Belthle)。昔からの、ケルナーの機械面でのアシスタントだった。
    そして、1855年にケルナーが亡くなると、一旦はオプティシェス・インスティトゥートの経営は従兄弟のエンゲルバートが引き継いだ。しかし、その翌年の1856年、ケルナーの機械面でのアシスタント・ベルテレがケルナーの未亡人と結婚すると、エンゲルバートは経営権を放棄し、オプティシェス・インスティトゥートを去る。
    これにより、ベルテレは製造面の最高権威であると同時に経営者となり、このときから会社で生産された顕微鏡には、”C. KELLNER’S NACH. FR. BELTHLE IN WETZLAR” とのエングレーブが施されるようになった(”NACH. FR.”とは、ドイツ語の”NACHFOLGER”の略で、「後継者」の意)。
    しかし、ベルテレは真面目な性格で仕事ぶりも熱心だったが、根っからの機械技術者だった。そのため、製品の品質向上には注力したが、経営者としては優秀とは言い難かった。また、健康も害していったこともあり、オプティシェス・インスティトゥートの経営は傾き始める。

    1-4.エルンスト・ライツ

    このように経営環境が厳しくなりつつあった1865年、オプティシェス・インスティトゥートにエルンスト・ライツ (Ernst Leitz) が入社する。ライツは上等な教育を受けており、入社直前の年には、時計メーカーで精密時計の高性能機械部品のバッチ生産を学んでいた。
    そんなライツは、入社してほどなく生産体制の改善を手掛ける。バッチ生産方式の応用をオプティシェス・インスティトゥートに取り入れるのだが、これにより生産コストは激減。経営はV字回復を果たし、オプティシェス・インスティトゥートを持ち直させることに成功する。そして、その後もライツは生産方法の改善を継続し、オプティシェス・インスティトゥートの業績は順調に推移することとなる。
    一方、こうした実績が評価され、ライツは入社一年もしないうちに会社のパートナーとなる。そして、3年後にはベルテレの死によって唯一のオーナーとなり、「オプティシェス・インスティトゥート」は「エルンスト・ライツの光学研究所(Optical Institute of Ernst Leitz)」 と生まれ変わる。
    オーナーになるや、ライツは大々的に顕微鏡のバッチ生産方式を開始させるのだが、これにより工場の生産性は急速に向上。当時のマーケットには高品質な顕微鏡に対する需要が大きかったこともあり、1880年になると、その年の顕微鏡の年間売上台数は500台を超え、新しい作業場を設置することとなる。そして、さらにその3年後にはより大きな工場を建設し、後のライカ判カメラや高性能レンズへの製造へと歩み始めることとなるのだが、この時はまだカメラの製造はしていなかった。
    ちなみに、1868年頃(ベルテレの死により、ライツが唯一のオーナーとなった頃)から”LEITZ WETZLAR”との文字がエングレーブされ始めているが、この頃の社名は「Optical Insitute of Ernst Leitz」のままである。ヌル・ライカ発表の頃には「Ernst Leitz」になっているのだが、正式な社名変更はいつなのか、残念ながらその文献は今のところ発見されていない。

    2.ライカ生みの親

    2-1.オスカー・バルナック

    後にライカの生みの親となるオスカー・バルナック(Oskar Barnack)は、1879年、ドイツのブランデンブルク州リュノウに生まれる。その後、少年時代をベルリンで過ごすのだが、その頃は非常に数学に秀でていたと言われている。
    バルナックは義務教育を終えた後、マイスター(ドイツ独特の徒弟制度による、いわゆる”親方”や”有資格者”)となるため、ドイツばかりでなくドイツ語圏の近隣国各地の作業所を渡り歩く。リヒターフェルデの天文学用器具の製造工場から始まり、ザクセン、ウィーン、チロル、エーナなどで修行を積み重ねた。
    そして、1902年、バルナックはイエナのカール・ツァイス財団に入社する。カール・ツァイスは当時最先端の光学技術を有していた企業であり、現在も光電子産業をリードする国際的テクノロジー企業である。

    2-2.小さなネガから

    カール・ツァイスに入社したバルナックは、休日になると両面取枠6枚付の13x18cm判カメラを担ぎ、ウェッツラーの街やチューリンゲンの森などを散歩しながら撮影を楽しんでいた(ちなみに、ウェッツラーはゲーテの名作「若きヴェルテルの悩み」の舞台となった美しい街である)。
    しかし、バルナックは小柄な上、もともと体が弱かった。そのため、趣味の撮影もカメラが重荷となった。当時の主流は、ガラス製で重い13×18cmの写真乾板を使用する木製大型カメラだった。そこで大きくて重いそのカメラの乾板を小さく区分し、単焦点レンズを使う特殊な装置を考案。15~20枚の両面を1枚の乾板に撮り分けることを工夫したのだが、乾板の粒子が荒く失敗。しかし、この時から「小さなネガから大きな画像を得る」ことに興味を持ち始める。1905年、バルナック26歳のことだった。

    2-3.ウル・ライカ

    1911年、バルナックは大企業カール・ツァイスを退社し、ライツ光学工場(現ライカ社)に映画機械試験部長として入社する。そして、翌年の1912年に最初の映画用カメラを試作するのだが、この時、色々いじっているうちに自分の考えていた「小さなネガ」の作成は乾板の小型化よりも35mm映画用フィルムをそのまま使った方が粒子も細かく最適だ、という結論に辿り着く。
    早速、映画の1コマと同寸法の小型スチールカメラを試作。5cmのキノテッサーを装着してテストするも、原版が小さすぎてハガキサイズ程度しか引き延ばせなかった。
    そこで、今度は映画2コマ分の24x36mmカメラを試作。レンズは当初は先の試作と同じキノテッサーを用いたが、ライカ判(35mm)には不適当であることが判明。マイクロ・ズーマル6.4cm F4.5が装着され、ここに「ウル・ライカ」が誕生するのである。(「ウル」はドイツ語で「原型」を表し、「ウル・ライカ」はライカの原型の意)

    2-4.ライカ判の論理的合理性

    バルナックがライカ判の決定に至る経緯は、「偶発的に映画用フィルム2コマ分が上手く行ったから」と上述した。しかし、バルナックが論理的思考のもと、24mmx36mmに辿り着いたという説もある。
    まず、当時のフィルムの解像力が0.03mmだったことを前提とすると、当時の写真の画像は0.03mmの点の集合により形成されていることとなる。したがって、バルナックが最初にしたことは、1枚の写真が鮮明に見えるには、この0.03mmの点がいくつ必要か、の調査だった。そして、バルナックは良質な網版印刷の表面にある編目によって形成された点の数を参考にし、およそ100万個の点により形成されていれば、写真はぼけたり画調が悪くならない、との結論に至り、0.03mmの点が約100万個集合できる面積がネガの最小サイズと考えた。
    そこで、フィルムの解像力をdとし、d=0.03mmの表面積を計算。結果、(d/2)²π=0.0007㎟を得て、0.0007×10⁶=700㎟が、バルナックのカメラに必要なネガの最少面積と考えた。そして、バルナックは自分の美的感覚によりこの面積の縦横比を2:3に決定。最少ネガサイズを22mmx33mmと算出した。しかし、これは35mmフィルムの映画用画面2コマに近かったため、バルナックは後にライカ判とよばれるサイズに自分が算出した「22mmx33mm」ではなく「24mmx36mm」を採用した、というのである。

    3.ライカ誕生

    3-1.2台のウル・ライカ

    今でこそ、ライカの原型を「ウル・ライカ」と呼んでいるが、当時はまだ「ライカ」という名はなく、「バルナックのカメラ」と呼ばれていた。そして、このカメラは2台作られ、1台はバルナック本人が所有し、もう1台は当時の社長エルンスト1世に送られた。
    ただ、ライツ社の社長エルンスト1世の関心は薄く、さらに1914年には第一次世界大戦が勃発。ライツ社及びバルナックはカメラの研究を一時中断せざるを得なくなる。しかし、戦後すぐ、バルナックはカメラの研究を再開する。特にレンズの鮮鋭度確保のため、小型距離化の研究とシャッター幕のスリットの課題に重点を置き、レンズの専門家であるベルクの協力を得て、ライカ判に最適な良質レンズの研究が急速に進められた。

    3-2.ヌル・ライカ

    戦後のドイツは敗戦により不況の時代を迎えていた。しかし、ライツにはいかなるときも失業者を出さないという伝統があった。そこで、エルンスト1世の後継者であるエルンスト・ライツ2世は、不況を乗り越えるための種々の方策を講じることとなる。「バルナックのカメラ」はその中の一つだった。
    しかし、ライツ社には精密光学工場が持つ技術力、それに膨大な実験や確かな理論による裏付けがあったが、周囲はカメラの製造には反対だった。それでも、エルンスト2世は強い信念を持って、エルンスト1世がほとんど興味を示さなかったバルナックのカメラの製品化に向け動き出す。
    まず、改良品を作らせた。製造数は全部で30。これが後に「ヌル・ライカ」と呼ばれる量産型試作機である。「ヌル(null)」はドイツ語で0を意味し、ヌル・ライカはライカ0型の意だ。

    3-3.ライツ2世の英断「ライプチッヒ見本市」へ

    ライツ社は発売に先立ち、当時の有名な写真家達にモニターしてもらったり、南米の熱帯地へ向かう探検隊にカメラを託し実地テストを行った。が、例外なく製造の中止を勧告された。こんなものでは商売にならない。反応はどれも芳しくなかった。それでも、ライツ2世はひるまなかった。敢然として工場生産を開始し、1925年、「ヌル・ライカ」を改良した量産機500台を春のライプチッヒ見本市に出品した。そして、そこで大きな反響を得る。
    まさにライツ2世の英断だった。もし彼の強硬な姿勢がなければ、ライカはこの世に生まれなかったかもしれないし、今の「写真」も違ったものになっている可能性が高いからである。

    3-4.レンズ面での協力者「マックス・ベレク」

    ところで、カメラにレンズは欠かせない。もちろんライカにとってもレンズは重要なファクターだが、ライカ誕生には「マックス・ベレク(Max Berek)」というレンズの専門家の功績も非常に大きい。詳細は不明だが、ウル・ライカ(ライカの原型)が完了した頃から、彼によるレンズの技術援助が始まったと言われている。
    ベレクは1912年、ライツ社に入社したバルナックの同僚である。1886年、現ポーランド(旧ドイツ領)のラチブシュ生まれ。鉱物学の領域での画期的な研究が認められ、37歳で学位を取得したドイツの精密機械エンジニアである。晩年はマールブルク大学の教授として講座を持ち、1949年10月15日、フライブルク(ブランデンブルク)で他界した。
    ベレクは1925年、ライプチッヒ見本市に出品した500台のヌル・ライカ改良型に、2種類のレンズを付けている。一つは、50mmF3.5の「ライツ・アナスチグマット」と名付けられたレンズ。これはヌル・ライカに取り付けられたものと同モデルで、1920年に特許(343086号)を取得している。
    そしてもう一つが、「エルマックス50mmF3.5」である。エルンスト・ライツのEとL、そしてレンズを設計したマックス・ベレクのMAXがその名(ELMAX;エルマックス)の由来だ。しかし、この「エルマックス50mmF3.5」と前出の「ライツ・アナスチグマット50mmF3.5」は、中身はまったく同じレンズだ。ただ、諸事情により名称を変更させただけのもである。

    ライカレンズのシリーズ全体の開発に、最終的責任を持っていたベレク。彼がバルナックとともにライカの生みの親であることは誰もが認める事実である。

    3-5.「ライカ」という名前の由来

    さて、話はまた戻り、ライプチッヒ見本市へ出品する「ヌル・カメラ」改良型の生産開始にあたり一つ問題が起きた。このカメラの名称である。そこで名称に関しての議論が活発となるのだが、最初は、このカメラは「バルナックカメラ(Barnak Camera)」とされていた。しかし、それが急遽変更。「ライツ(Leitz)」と「カメラ(Camera)」の頭をとって「LECA」が候補となり、再転して語呂のよい「LEICA」に決定された。

    4.バルナック型とM型

    4-1.バルナック型とM型の違い

    バルナック型カメラとは、「ウル・ライカ」「ヌル・ライカ」から始まったライカの歴史における初期の頃のカメラの総称で、M型登場以前のカメラを指す。名称の由来は、もちろんオスカー・バルナック。ライカの直接的な生みの親であり、彼に敬意を表し、M型と区別している。
    バルナック型とM型の最大の相違点は、バルナック型の接眼窓(ファインダーや距離計などに目が接する側の覗き窓。接眼部、またはアイピースとも呼ばれる)は二眼式、M型は一眼式であり、マウントはバルナック型がスクリュー、M型はバヨネットという点である。

    4-2.M型はどのように誕生したのか

    こうしてみると、ライカの世界で人気を誇るM型は、初期の頃のバルナック型と大きく異なる。そのため、M型はバルナック型から突然変異的に誕生したと思われる方も多いことだろう。しかし、M型は突拍子もなく生まれた訳ではない。ウル・ライカから連綿と培われたバルナック型のノウハウがあったからこそ、M型の衝撃的デビューに繋がった。
    そこで、ここではM型へと導く代々のライカについて、まずはその呼称からおさらいしたい。

    4-3.バルナック型ライカの呼称

    本当に、ライカには呼び方がいくつもある。大きく分類すると、「アメリカ式」と「ライツ社式」だが、日本ではアメリカ式を踏襲しつつも独自の呼び方が浸透している。
    一般的に「A型」「B型」「C型」と呼ばれるものが、正式には(ライツ式では)I型。ただし、「B型」は「コンパー付Ⅰ型」。
    DⅡは、アメリカでは「D型」、ライツ式の正式名称はⅡ型。
    ライカ・スタンダードは、アメリカではE型、ライツ式ではスタンダード
    DⅢは、アメリカでは「F型」、ライツ式ではⅢ型。
    DⅢaは、アメリカでは「G型」、ライツ式ではⅢa型。
    DⅢbは、アメリカでは「G1938」、ライツ式ではⅢb型。
    以降は、日本ではライツ社と同じ呼び方をとっており、アメリカも「250枚撮り」を「FF型」としたのを最後に、ライツ式に統一されている。

    5.まとめ

    今なお世界を魅了してやまない「ライカ」。このライカの誕生には、いくつも偶然が重なり合っている。
    まず、ドイツが第一次世界大戦で敗戦していなければ、ライカはバルナックの道楽で終わっていた可能性が高いこと。この事実は驚きだ。ライカ誕生は、ライツ社の経営理念「どんな時でも失業者を出さない」ための施策であったのだ。
    そして、このライカ誕生には、エルンスト・ライツ2世の英断が大きい。不況を乗り越えるためバルナックのカメラに注目し、そこへ惜しみない援助を与え続けて育て上げ、多くの反対を押し切って発売を決定したライツ2世。そんな彼を、「ライカの生みの親」と表現しても誰も異は唱えないだろう。
    そして、レンズの専門家・マックス・ベレク。ライカ誕生は、彼の功績が大きいのは先述の通りだ。彼もまた、ライカの生みの親の一人だろう。
    もちろん、オスカー・バーナックもライカ生みの親である。彼のカメラの小型化に対する情熱がなければ、ライカは誕生していない。

    当時のカメラは大きく重かったため、カメラ所持者は誰もがその小型化を願った。そのため、多くの先人が小型カメラを試作している。トーマス・エジソンもその一人だ。1895年に活動写真機キネトグラフと映写機杵とスコープを作り、パーフォレーションのあるフィルムを完成させている。
    が、実はエジソンより以前にも、乾板を小さく切った小形カメラはいくつも試作されていた。また、軍事的目的から極小フィルムカメラが作られたりもしていた。
    しかし、それらはただそれだけで終わってしまい、過去の歴史の中に消え去った。その形態は今や図や写真として残っているだけである。これはライカほど精密工作がされてこなかったことが原因であり、そのため実用に至らなかったのである。

    エルンスト・ライツ2世。
    マックス・ベレク。
    そして、オスカー・バルナック。

    この三人と時代が織りなしたいくつかの偶然が、この地球に「ライカ」と呼ばれる奇跡を誕生させたのである。

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